関西学院大学探検会 |
大雪山活動記
参加者 活動期間 96年9月7日〜13日
9月6日、僕は小樽のフェリーターミナルにいる。1日からの羅臼岳合宿が今終わろうとしているのだ。そして、僕以外の参加メンバーはすべて今夜の船で北海道を発つ。正直言って、僕は他のメンバーとともに船に乗って家路につきたい気分だった。3日間の登山の後、レンタカーを借りて斜里から網走、釧路を経由して滝川、岩見沢、札幌、そして小樽へと観光を交えて、僕らは北海道を横断してきた。「このまま、このフェリーに乗ればまさにこの旅は楽しかった。」となるはずだ。やはり、2つ続けての合宿、しかも山合宿だ。体力的にも精神的にも無理があるのではないか・・。そんなネガティブな方向へと気分はどんどん沈んでいく。しかし、そんなことをいくら考えていても無駄なのはわかっていた。「明日からまた登山なんて大丈夫なん?」と心配してくれる子もいたが、すでに一人参加を辞退するつもりでいるメンバーがいたため、僕までやめるなんてなると吉田はなんと言うだろう。大雪合宿そのものが中止になりかねない。「ぜんぜん大丈夫やで。体力も回復したし、旭日岳も行ってみたいと思うし。」と、言うほかない。
9月7日(晴れ) 僕らはいきなり寝坊をかましてしまった。前の日、フェリーを見送りながらテントを張り、ヴィクトリアにステーキを食べに行って寝たのは2時くらいだったのだ。早々に撤収して、南小樽駅へと向かう。ザックはかなり軽くなっていた。そのことだけでなんか嬉しくなってくる。先日のように、病的なほど帰宅したいという気分はすでに消えていた。シュラフも智美に上等なのを借りていたので寝るのには苦労しないだろうと考えていた。この日はずっと汽車(北海道では電車とはいわない。電化されてないんだから当然。)の中。滝川で食料を仕入れる。富良野ではボーっとしてた。新得につくと、秋祭りをしていた。出店の一つでフランクを食べる。そこから西川さんちに電話をした。彼は自宅に戻っていた。ひとしきり悪態をついて電話を切る。帯広につくと午後8時をまわっていた。公園にテントをはり、近くの銭湯に行き、ローソンで晩飯買って食べてその日は眠る。
9月8日 (晴れ時々曇り) 6:00 起床 → 7:11 帯広 → 8:45 糠平温泉 8:55 → その日は7:11のバスに乗れるように僕らは起きることができた。朝飯と昼飯を昨日来たローソンで買ってバスに乗り込む。糠平まで約1時間半、明さんと僕は眠った。健二はなんか食べていた。糠平からバスを乗り換え、十勝三股へ。その車内で明さんにその運転手は「三股へ行く途中で登山口への林道があるのは知ってるだろ?ならそこで降ろしてあげるよ。」僕は北海道に来て以来思っているだが、この土地の人はバックパッカーにやさしい。別にザックを背負っていなくとも、北海道を旅行している人間に北海道の人は異質の目を決してしない。むしろ、当然のこととして僕らをみている。林道の手前で降ろしてもらう。ここからは登山口までトレックする。なんの面白味もないただ、長いだけの林道をひたすら歩く。時折、岩間温泉へと向かうらしい車が横を通り過ぎていった。僕らは歩いて距離を稼ぐしかない。なぜか自然と歩くペースは他の2人よりも速くなる。早く旭岳を見たいからだったのか、それともさっさとこの登山を終わらせたかったのか、今考えてもどっちとは言えなかった。正午前、登山口に到着。そこで、昼食を済ませる。飲み干したアクエリアスのボトルは後に水筒代わりにするためにザックのポケットにしまい込む。午後1時、僕らは十石峠めざして歩きはじめた。最初はなだらかなアップ。地図で見るかぎり、水場からが勝負だった。水場の標高が1136、そして十石峠は1576。そこをコースタイムでは2時間で登り切る。そこでは僕自身そんなにきついものではなかった。それよりも、知床では悪天候のためほとんど見ることのできなかった雄大な自然が目の当たりにあるという事実の方が僕にとっては重要だったからだろう。そういう訳で、ほどなく十石峠に到着。眼前に広がる山々は僕らを歓迎してくれているかのように見えた、おおげさじゃなく。そこから今日のテン場であるブヨ沢までは稜線伝い。右にユニ石狩岳をみながらそこを目指す。そして1626のコルらしき所に到着してテントを広げ、その日は早々に眠りにつく。
9月9日 (曇り時々雨とガス) 5:00 起床 → 7:00 テン場発 → ブヨ沢 → 音更山 → 石狩岳 朝起きると吉田はカメラをもってテントを出た。僕もテントから顔を出すと太陽が山の向こうから顔を出そうとしているところだった。明さんと僕は、寒いのでそのままテントに残り、火器を着けて暖まる。30分ほどすると、吉田は戻ってきた。「すごい朝焼けやって!自分ら見いひんかったこと絶対後悔すんで!」としきりに叫ぶ。僕は寒いのでどうでもよかった。だいたい目覚し時計が鳴ってから、撤収し終えて歩きはじめるまでは2時間かかる。ちゃんとした山岳部ならばそんなことはないのだろうが、ぼくらはヘタレなので無理だ。明さんが火器を着けるまで何もすることができない。そんなわけなので、朝飯を食べて煙草を吸って予定通り(?)、そのテン場を発ったのが7時だった。そして、しばらく歩くうちにとんでもないことがわかった。30分ほど歩くと、そこは僕らがテン場にするはずであったブヨ沢のキャンプ指定地があった。そして沢へと続く道があった。僕らは、昨日テントを張ったところが指定地と思っていたのだが目的地よりも前にテントを張ってしまっていたのだ。ここから予定が狂ってくる。その日の内に、五色の水場に到着する予定だったので僕らは水を満タンにすることはせずに、明さんのポカリのボトルくらいにしか水は補給しなかった。このことがあとで大問題を引き起こすことになる。そこから音更山を経て、石狩岳手前で小休止をとる。この時点で予定から大幅に遅れを取っていた。今日中に大沼に着くのは無理かもしれないという空気が3人の中に流れはじめる。そして、それに追い討ちをかけるような事を僕はしてしまう。ジッポがない。もしかしたら音更山に忘れてきたのかもしれない。それを明さんに言うと「取ってきたるわ。」と行ってもらったのだ。しかし、しばらくすると僕はそれを袖の中にしまっていた事を思い出す。でも、今更健二に言ってもしょうがないし。
9月10日 (雨とガス) 4:00 起床 → 6:00 テン場発 → 川上岳 → J.P → 根曲がり廊下 → 17:30 沼の原手前の湿地帯でビバーク 朝起きると、相変わらず外はガスっていた。しかしそのおかげでそんなに気温は低くはなかった。僕らは無け無しの水でスパを茹で食べた後、とりあえずJ.P(ジャンクション・ピーク)を目指す。昨日ははっきり分からなかったのだが僕らは川上岳のほんの少し前でビバークしていた。「少しでもこの遅れを取り戻さなくては・・」そんな思いが3人にはあったが、何しろ入山後ずっと天候は最悪である。天気予報も僕らの期待を見事に裏切ってくれる。川上岳からJ.Pまでは稜線の少し下を歩く。左側にはニペソツ山を始め広大な自然が広がっているはずなのだがガスに遮られて何もみえない。それだけでも僕らの士気は落ちてしまう。登山ってそんなもんだ。何でこんな苦しい思いをしてまで僕はこんな所を登っているのだろうっていつも思うがピークに到達してこれまで歩いてきたルートに目を巡らし、地平線とも水平線とも見分けの付かないはるか向こうの景色をぼーっと眺めているとそんなことは忘れてしまうもんだ。羅臼に登った人ならわかるでしょ?とにかく僕にとって、天候が悪いのは登山そのものの目的が失われる事を意味している。とにかくブルーだ。J.Pを過ぎれば後は約600のダウンだから楽に距離を稼ぐ事ができるだろうと僕らは考えていた。確かに1289のコルまではそうだった。ひたすら山を下りるだけなのでひざに少々の負担が来るだけでペースが落ちる事はない。1289のコルにやってくる。水場がある。そこで明さんと僕は稜線から少し下り、水場へと下る。待望の水場だ。ポリタンはもちろん、アクエリアスのボトルにまで水を満載した。ふと足元に目をやる。すると人間の足跡とは思えないそれがたくさんあった。イノシシらしきものからヒグマまで・・。知床にくらべると比較にならないほどこの辺は野生動物のにおいがプンプンする。コルまで戻って小休止して出発することとした。ここから沼の原までの分岐までのコースタイムは2時間。この時点で僕らは沼の原を今日のテン場とする事を決めていた。2日の行程を丸3日かけて行くこととなってしまった。しかし、状況はさらに悪化していく。そこから沼の原まではルートを見失いそうなほどクマザサが生い茂っていた。入山前から吉田は根曲がり廊下付近の情報が全くないといっていた。僕は気にも留めていなかったのだが現実には登山者の進入を拒むかのように、2メートルはあろうかというクマザサが生えていた。薮こぎというよりは薮潜り(松本明談)である。気が狂いそうだった。はらってもはらってもクマザサが顔に覆い被さってくる。クマザサ相手に本気でキれて、それをムキに折りまくっていた僕は正常ではなかったと思う。そうこうするうちに雨が降り出しそれはどしゃ降りとなった。「羅臼のみんなはどうしているのだろう・・みんな日常社会にもどってバイトなりなんなりしているのだろう」そう思うと今自分がそこにいることをとても恨めしく思った。1309のコルらしきところで小休止をとる。3人ともほとんど無言。たまに口を開けば「なんやねんこのクマザサ!気ぃ狂いそうや!」という吉田はすでに狂っていた。その後もクマザサの海だった。トップにいたのは僕でその後は吉田、そして明さんだった。僕はルートらしき道をたどっていた。しかしある時点でそれはプッツリきれてしまっていた。「ルートどこやねん!」と僕は叫ぶ。二人も前の人間を見ながら歩いてきていただけだったので突然そんなことを叫ぶ僕に答える事はできない。とりあえずルートをみつけようと明さんはザックをおいて探し出す。行ったまま迷ってはならないので吉田はラジオを鳴らして元の位置にとどまる。「浜口、どっちから来たか覚えてるか?」「だいたいあっちのほうだと思いますけど・・」と答える僕にも自信はない。周りには熊の足跡やその時にできた獣道でいっぱいだった。そのせいで、あたり一帯全てがルートにみえる。ホントしゃれならん状況だった。「富士の樹海じゃあるまいしこんなことになってしまうなんて・・」その後、どうやってルートを見つけ出したかあまり覚えていない。なんとなく道らしきところをたどっていってテーピングを見つけた。多分そんなとこだろうと思う。こんな所ではビバークもできない、何としてもルートを見つけ出してここを脱出しなくてはという思いしかその時にはなかった。相変わらず雨は降っていた。そして薮の中、高度を稼ぐうちにクマザサの植生限界にきたらしくクマザサの背は腰くらいになってきた。やっと登山道らしきところにまできて僕らは小休止をとる。そこで明さんはザックから火器とティーバックと出した。「ティー飲も。」その時僕は明らかにハイポサーミア(低体温症)の症状が軽くにしろ出ていた。ザックをおいて立ったまま何もする気が起こらない。煙草を吸うことさえおっくうに感じていた。言う事もしどろもどろではっきりといいたい事を伝えられない。そして何より寒かった。やはり着ていたものがまずかったのだろう。吉田と明さんは一番下に化学繊維のTシャツを着ていたのですぐに雨なり汗なりは乾いてしまう。だから2人は多少寒いにしろ行動を制限されるほど体は冷えていなかったに違いない。ここで僕はまた苦労してひとつのことを学習する。登山するのに綿のシャツは着てはいけない。そこから沼の原までは楽であるはずだった。しかしそれも当てが外れていた。沼の原にちかい台地に到達して僕らは先が見えてきたと心持ち楽な気分になっていた。しかし、そこでも僕らはルートをロストする。広い台地をウロウロする内に時刻は17:00をまわっていた。太陽が沈むと暗くなるばかりでなく気温も急激に低くなる。今の僕には致命的だった。吉田はルートを見つけようとするが、その時明さんはすでにそこでビバークすることを決めていた。結局吉田もルートらしきものを見つけたがガスが深く先が見えないため引き返してくる。僕らは沼の原にさえ到達できなかった。まさに痛恨のビバーク(吉田健二談)だった。あたりは動物(たぶんクマ)の足跡だらけ、それに湿地帯。ヒグマに襲われる危険性も一番大きかったに違いなかった。最悪のビバーク・・・・・
9月11日 (晴れ一時雨と雹、後雷雨) 4:00 起床 → 6:00 テン場発 → 沼の原 → 五色の水場 → 五色ヶ原 → 13:00 昼食 14:00 → 五色岳 → 16:00 忠別岳避難小屋 あっという間に朝が来た。昨日は状況は最悪だったが水は十分に補給してあったのでティーはもちろん、味噌汁だってポタージュスープだって飲めた。そして飲んだ。夜もクマの心配をしていた割にはすぐに眠りにつく事ができて一度も朝まで目覚める事はなかった。そしてテントの外は昨日までの天気がうそのように晴れ上がっていた。その時の僕らにとってこれ以上の自然からの贈り物はない。上機嫌で朝飯を食べた後撤収を始める。しかし、またしても雲が太陽の姿を覆いはじめる。その瞬間から僕は山での太陽の存在を信じなくなった。吉田は言う。「ここの山は魔性の女や!こっちの努力が実ったと思って喜ぶとすぐにまたソッポを向いてしまう・・」吉田君にはそんな経験があるらしくその言葉には重みがあった。沼の原への分岐はガスがはれていたために案外あっさりと見つかった。幾分足取りの軽くなった僕らは沼の原へと向かう。ここは一面沼と湿地であるためルートには木道がついていた。太陽も少しではあるが姿をのぞかせていたので五色ヶ原へのルートも見る事ができた。この時初めて僕は今自分が北海道にいるのだということを実感した。知床でも味わえなかった(もちろん天候が悪かったせい)
9月12日 (快晴) 5:00 起床 → 7:30 テン場発 → 忠別岳 → 高根が原分岐 → 僕としては、この日と次の日の13日がなければこの大雪山の縦走は大失敗だったと死ぬまで思っていただろうし、二度と来たいとは思わなかっただろう。
9月13日(またまた快晴!) 4:00 起床 → 5:10 旭岳 → 6:00 テン場 → 8:00 テン場発 → 間宮岳 → 中岳 → 北鎮岳分岐 → 黒岳 → リフト → ロープウェイ → 13:00 層雲峽着 僕らは4時に起床し、旭岳でご来光を拝む事にした。なんとか疲れで重くなった体を引き摺りテントを出た。最初はヘッドランプを必要としたが、全く木や草がないので見通しはよい。どうしても1番にピークに立ちたかったので、それにご来光に間に合うように半分走りながらピークを目指した。何度も後ろを振り返りながら登ったがどうやらまだらしかった。ピークは見えているのになかなか到着できないのは非常に苦しい。ようやくピーク。僕が到着とほぼ同時に反対側からきた登山者と挨拶を交わす。彼と僕は太陽の出てくる方向を向いて少し距離を置いて座った。僕は煙草を吸いながら、彼はコーヒーを入れながら9月13日の太陽を迎えた。この瞬間のためにここまで苦労してきた、そう思った。その時見た太陽は静けさの中に激しい感情を持ちあわせた物体に見えた。それでも少し時間が経つといつもの太陽に戻ったけど。
96/10/04 0:49 浜口 智
|
関西学院大学探検会 |