関西学院大学探検会


旧福知山線廃線跡 ポタリング

 

期間:2002年9月21日(土)

場所:JR西宮名塩〜武庫川渓谷〜JR武田尾〜生瀬〜武庫川サイクリングロード

隊員:服部真矢子
    古賀良太郎

費用:1000円弱

行程:9:10阪急宝塚駅→9:40JR西宮名塩駅→10:20廃線跡に入る→11:30昼食(親水広場)→12:40JR武田尾駅→13:00出合橋→13:50生瀬橋東詰→14:00JR宝塚駅→14:30武庫川サイクリングロード→15:00解散

【総括】
旧福知山線廃線跡に関する詳しい説明は、末尾の沿革を見て欲しい。近年の廃線跡ブーム?の中でもひときわ有名な、しかしながら、都市圏から近い割には風光明媚なハイキングコースである。枕木や明治時代に建造されたレンガ積みのトンネル、そして鉄橋。鉄ちゃんなら垂涎ものだろう。
今回は、私がMTBを購入したためにヒタスラ走りたかったという理由だけで、行ってみた。結果的にこのコースは自転車にとって走りにくい場所であったし、距離的にも物足りないものだった。しかし二人とも、アレンジしたルートと走行量と自転車特有の爽快感、達成感に大いに満足できた。ポタリングは楽しいよ、自転車ならではのコースプランニングも面白いよ、と皆にアピールできるようになったと思う。
活動する手段が変われば見える景色も感じ方も違ってくる。探検会は手段を限定されないし、むしろ新たな手段を取り入れてこその探検会だと思う。

【行程】
インターネット等で調べたところでは、JR西宮名塩からアクセスするのが良いとなっていたが、自転車ならば、R176沿いに生瀬と名塩の間で下りていく場所があるので、そこから入っていくのが近道。名塩駅からだと、駅の裏側に回り、塩瀬中学校の横を通る。中国道の高架の下を通って、道なりに下りて行くと集落がある。突き当たりの赤いテントの美容院の奥。急斜面を下りると廃線跡に出る。
廃線跡に出て右(176号線方面)に行くと生瀬方面なので、左(北側)に進路を取る。右下に武庫川を見下ろしながら、程よい道幅の廃線跡を行く。足元に枕木は見えるが、気になるほどではない。一つ目、二つ目のトンネルを通った辺りから枕木のデコボコと、道の狭さで自転車から降りて歩くことにする。ちょっと乗れてもスグに枕木。ハイカーが非常に多いので、道の譲り合いも頻繁。途中にある水場の水は、かろうじて飲める程度。決して美味しくは無い。トンネル内は大抵道が曲がっていて距離もあるので、ライトは必須。しかも地面から石柱や枕木が突出しているので、明かり無しに歩くのはとても危険だろう。もちろん自転車にとっても例外ではない。不意のパンクや転倒を避けるためにもライトは必要だ。
4つ目のトンネルを出ると、すぐに立派なトラス橋がある。トラス橋自体はフェンスで閉鎖されており、脇の整備用歩道を抜ける。ここから武庫川の左岸に移る。
しばらく行くと、キレイに整備された場所に出る。ベンチがあり、河原へも下りられるため、昼食や休憩に適している。ここから武田尾までは道幅も広くなって歩きやすいが、やはり枕木のせいで自転車に乗るのは骨が折れる。廃線跡の終着点には公衆トイレと水場がある。そこから武田尾駅までは500メートルほど。

【装備】
MTB・火器・カートリッジ・鍋・お茶セット・飲料水・工具一式・携帯ポンプ・輪行バッグ・カメラ・カッパ

 

【旧福知山線 沿革】
福知山線は現在では大阪のベッドタウンの通勤・通学路線になっているが、スタートは伊丹の酒造業者らの手によって明治24年に尼ヶ崎(のちの尼崎港)〜伊丹間を開業した馬車鉄道であった。この馬車鉄道は官鉄(東海道線)と交わるところでは官鉄より線路を3.8cm(1インチ半)高く敷いて、馬車の車輪が官鉄のレールを直接踏まないようにして平面交差していたという。
しかし馬車は経費がかかるため採算が悪く、しかも増加する貨客をさばききれなくなったため、開業2年後に摂津鉄道に引き継がれ、その摂津鉄道は尼ケ崎〜池田間を開業した。このとき馬車鉄道から蒸機鉄道になったために、「まともな鉄道」が官鉄のレールを踏み越えることは許されず、後に築堤が築かれて立体交差化されるまでは、乗客は官鉄の南北につくられた停車場間を歩いて横断した。
さらに明治30年には阪鶴鉄道がこれを譲り受け、762mm軌間を1067mmに改軌して、現在の国道176号線の呉服橋西詰付近にあった池田駅の位置を変更し(のちの川西池田)、北へ向けて路線を延ばし始めた。阪鶴鉄道はその名の通り大阪〜舞鶴間を結ぶことを目指していたが、ライバルの京都鉄道会社(京都〜綾部〜舞鶴間等を出願)に認可が下りたため、阪鶴には福知山までしか認可が下りなかった。そのため明治32年に福知山までを開通させたが、途中の有馬口(現生瀬)〜道場間は難工事であったため建設資金が欠乏し、三田までで路線の建設を打ち切る話が出たほどであった。
一方、「阪鶴」の「阪」の方、神崎(現尼崎)〜大阪間は、官線と平行しているためにこれも認可が下りなかった。そこで阪鶴鉄道は大阪への乗り入れを果たすべく、明治31年に塚口から官線の神崎に接続した。さらに、京都鉄道の建設が資金難のため遅れ、明治32年にようやく園部まで開通した状態であるのに目を付けた阪鶴鉄道は、福知山〜舞鶴間を再出願した。しかし、舞鶴までの鉄道は軍事的要請もあり官営で建設するとして、またもや政府はこれを認可せず、明治37年末に完成した。阪鶴鉄道はこれを借り受けることによって、設立以来の夢であった大阪〜舞鶴間の直通を果たしたのである。さらにこの会社は海運業をも兼営し、舞鶴〜境間や、舞鶴〜小浜間の航路を開設、国有後も国鉄に引き継がれ、山陰線全通までの日本海の海運に貢献したという。
旧武田尾駅舎このように意欲的な経営をしていた阪鶴鉄道であったが、明治39年公布の鉄道国有法により、翌年全線が国に買収された。半ば強制的な国有化であったが、その一方で鉄道を奪い取られた阪鶴の首脳陣は、のちに現在の阪急電車の前身を設立することになる。実はこれにも紆余曲折のドラマがあるのだが、論旨からはずれるのでここでは略する。ちなみに阪急創始者の小林一三は、阪鶴では監査役であった。
東海道線に接続した時点で起点駅から実質的には盲腸線の終点になりさがった尼ケ崎駅は、当時の尼崎の街の中心部にあったものの、利用客は少なかった。阪鶴時代の明治34年には尼崎支線の旅客取り扱いを廃止し、この状態は国有化後の明治44年まで続くほどであった。そのためか終戦後の昭和24年、神崎駅に「尼崎」の名を明け渡し、尼崎港に改称した。尼崎港線の旅客列車は終戦直後でも1日10往復程度、のちには1日3往復程度しかなかったが、福知山線の生い立ちを主張するかのように、廃止直前を除いて列車は川西池田〜尼崎港間の運転をしていた。

廃止が間近に迫った夜の旧武田尾駅舎。駅の移転を知らせる看板がみえる(昭和61年)
その一方で、貨物のほうはまずまずの輸送量があり、廃止数年前の段階でも尼崎港駅は大阪鉄道管理局管内で取扱量においても貨物収入においてもベストテン圏内をキープするほどであった。しかし、全体的には近代化の波に乗り遅れ、複線電化の道を突き進む”本線”に対して福知山線の発祥の地であったこの区間は昭和56年に旅客、そして昭和59年に貨物の取り扱いを打ち切り、ひっそりと廃止された。
また沿線の発展による旅客の増加とともに複線電化の要求が高まったが、生瀬〜道場間は武庫川のえぐった渓谷に沿って線路が敷かれていたために、腹付け線増することは困難であった。そのため、巨費を投じて長大トンネルを主とする別線をつくって複線電化することになり、昭和61年に新線に切り替えられた。
これはちょうど山陰線の保津峡付近の複線電化と状況が似ているが、こちらの旧線はしばらく放置されたのちに嵯峨野観光鉄道のトロッコ列車が走るようになり、今でも車窓から渓谷美を楽しむことができる。一方、福知山線の旧線の方は、生瀬〜武田尾間がいつのまにか渓谷美が楽しめる関西ではメジャーなハイキングコースになり、休日にはそこそこの人出で賑わっている。



2002年9月22日(日)
文責:古賀良太郎

関西学院大学探検会